北御堂 本願寺津村別院promotion project

2020

本町に建立された浄土真宗本願寺派北御堂本願寺津村別院。

大阪と本願寺の関係は、発祥から現在に至るまで、切っても切れない相関関係の上で成立し、発展してきました。

そもそも大阪の発祥は、1496(明応5)年に本願寺第8代蓮如上人(れんにょしょうにん)が、今の大阪城付近に一宇の坊舎(大坂御坊(おおさかごぼう)を建立されたことに始まり、この大坂御坊を中心に多くの門徒が集まり、寺内町(じないまち)を形成したことに由来します。
本願寺が京都に寺基移転後、大阪の門徒たちは、1592(天正20)年に「桜(ろう)の岸(きし)」現在の天満あたり八軒屋付近、天満橋南詰以東)に集会所を設けます。これが、本願寺津村別院の始まりとなります。

また、この楼の岸は石山合戦の初め、1570(元亀元)年織田信長が陣を敷いた場所で、その後、この場所を本願寺が占拠し、砦を築き防御を固めた場所であり、本願寺が大坂を退去した後も大坂の門徒たちは、この地で法義相続してきた場所でもありました。

そして、この集会所は、1597(慶長2)年に町割改革により、当時「円江(つぶらえ)」「津村郷(つむらごう)」と呼ばれていた現在の地に移転し、「津村御坊(つむらごぼう)」と称しました。

翌1598(慶長3)年には、准如上人が移徒法要、顕如上人七回忌法要の予修を厳修されますが、伽藍の整備が完遂するのは、1605(慶長10)年になります。

准如上人は、大谷派別立による末寺、門徒の去就、争いなど教団運営が困難な時代にありながら、津村御坊をはじめとする地方御坊の設立とその基礎整備に尽力されました。

このことからも近世本願寺の基礎を築かれたのは、まさに准如上人と次代の第13代良如(りょうにょ)上人であると言えます。

また、大谷派、東本願寺の教如上人は、1592(文禄元)年に西成郡渡辺の地に一寺を建立し、1598(慶長3)年に難波の地に移転し、1605(慶長10)年には御堂が完成しています。

これが、現在の真宗大谷派難波別院(南御堂)です。

そして、南北両御堂のその門前には多くの門徒が集まり、「御堂さんの屋根が見える。鐘の音が聞こえる場所にのれんを張る」ことを合言葉に仕事に精を出し、船場の町を形成し、商都大阪の礎を築いていったのです。

大阪のDNAは今もここにあり、ここから大阪が始まったと言っても過言ではありません。今、原点に立ち返り人々のサードプレイスとしてあり続けるためにこのプロジェクトはあります。






アニメーション「心のふるさと北御堂」
動畫「心靈故鄉北御堂」

北御堂施設紹介動画
北御堂設施介紹影片

浄土真宗本願寺派北御堂本願寺津村別院是建立在本町的寺廟。

從起源至今,大阪和本願寺之間的關係建立在密不可分的相互關聯上,並逐漸發展壯大。

大阪的起源可以追溯至1496年,當時浄土真宗本願寺派第8代住持蓮如上人在今天的大阪城附近建立了一個名為「大阪御坊」的寺廟,這成為大阪的起點,並且吸引了許多門徒聚集在這座寺廟周圍形成了寺內町。

當本願寺在京都建立了新的寺基後,大阪的門徒們在1592年(天正20年)在今天的天滿橋南岸東側、天滿八軒屋附近的「櫻之岸」設立了一個聚會場所。這就是北御堂本願寺津村別院的起點。

此外,這座建築物的岸邊是石山合戰(1570年,元龜元年)時織田信長布陣的地方。

之後,本願寺佔據了這個位置,建造了堡壘並加固了防禦,成為一個重要的據點。即使在本願寺退出大阪之後,大阪的門徒們仍然在這個地方繼承了宗教信仰。

這個集會所於1597年根據城鎮改革移至當時被稱為「円江(つぶらえ)」和「津村郷(つむらごう)」的地方,即現在的位置,並改名為「津村御坊(つむらごぼう)」。

翌年,即1598年舉行移徒法事、顯如上人七回忌法事的預修,但伽藍整備工程直到1605年才完成

准如上人雖然處於大谷派分裂、門徒去留不定、爭鬥不休的困難時代,卻努力於創立及整備地方御坊,其中包括津村御坊。

這表明近代本願寺的基礎是由准如上人和接替他的第13代良如上人建立的。

此外,大谷派、東本願寺的教如上人於1592年(文禄元年)在西成郡渡邊地區建立了一座寺廟,1598年(慶長3年)遷往難波地區,1605年(慶長10年)建造了一座御堂。

這就是現在的真宗大谷派難波別院(南御堂)。

南北兩御堂的門前聚集了眾多的門徒,以「御堂的屋頂可見,鐘聲可聞的地方掛起招牌」為口號努力工作,形成了船場的城市,並建立了商都大阪的基礎。

大阪的DNA現在仍然存在於此,可以說從這裡開始了大阪的歷史。為了回歸這個起點,並且繼續作為人們的「第三空間」,這個計劃正在進行。

北御堂 本願寺津村別院promotion project